40にして思うアーティストとしての在り方

Central Avenue
2012年40歳の誕生日パーティーにて。左からシャンペーン(シンペイ)さん、僕、シュンさん、ユキさんです。

今は1年で1番昼が長い時期ですね。
サマータイムが導入されているアメリカ。
ただでさえ太陽がギラギラと照りつける街のLAが、さらに遅くまで明るいので、時間の感覚がずれてきそうです。

夜の8時でもまだ明るいなんて面白いですよね。

さて、夜の8時でもまだまだ明るいLAダウンタウンでは、メンバー全員で歌詞の内容について真剣な議論が行われています。

シャンペーンさんの作品、Feeling of Sorrow。

演歌チックな歌だけならず、歌詞の内容も今の段階では....かなり暗いのです。

太陽さんさんのLAなのに、歌詞から暗雲が目に浮かびます。

マイナーな曲調、感情たっぷりでウェットな演歌チックな歌唱法、深刻な内容の歌詞....。

シャンペーンさんが表現したいテーマはメンバーのみんなも理解しているのですが、それをバンドの作品として出した時に、それを聴きたいと思ってくれる人がいるのかというと、それはまた別の問題です。

メンバーの想いはもちろん尊重されますが、かといって、なんでもかんでも「それで良いよね。」で通ってしまうような取り組み方はしていません。

ダメだと思ったものは、バッサリとダメ出しされます。

僕も昔は録音や作曲でボロボロにダメ出しされまくりました。

でも、それって大切な事だと思います。

どんなに頑張っても悔しくても、ダメなものはダメ。
ダダをこねても、ウンチクをならべても、ダメなものがオッケーに変わる事はありません。

通用しないものは通用しないのです。

僕達が行こうとしている世界はそういう世界。

だから、今の段階からそういう世界に自分達を慣らしておくのは重要なことです。

メンバーをハッとさせられないようでは、リスナーの人をハッとさせる事なんてできません。

メンバー内で、なぁなぁで済んでしまったら、外に出た時にどうなるんでしょう?

仲良しオジサン達の週末の楽しみ...に、なってしまってはマズいです。

お互いを大切な仲間なんだと想う気持ちはみんな持っています。
でも、それと同時にお互いが1人1人の表現者としての責任があります。

音に対して真剣な為に、メンバーに対しても真剣に向かい合っています。

そのつもりは無くても時々は辛い想いをしたり、させてしまったりする事があります。

それは、避けられない事ですし、むしろ自然な事だと思います。

「磨く」

包丁も宝石も細かい無数の傷を重ねることで、無駄やムラがそぎ落とされて輝きを放つようになりますよね。

痛みが無い、傷が無い...それはそれでとても純粋で素敵なものですけど、痛みを重ねて、傷を受け止めてきたからこそ、外に対して放てるものがあるのもまた事実。

素質も磨きをかけないと開花しないものですし、自分達を高めるためには痛みを恐れずに進んでいく事って大切なことなんだなって、この歳になってつくづく感じます。

音を聴かせるということの責任。

人にメッセージを届けるということは、どういうことか。

そこに情熱やエネルギーが宿っているからこそ、そこに何かを感じてもらえるんだという事。

今日もシュンさんがメンバーに音楽への情熱と献身の重要性、自覚と覚悟を決めることの必要性を説いてくれてました。

「やるなら、人生を全てかけるぐらいの気持ちでぶつかれないと、勝負に出る前から終わってるよ!」

オヤジ達の人生は変化を遂げる事ができるのでしょうか?

若いうちに夢を叶えられなかったオヤジ達。

人生の終盤で奇跡を起こす事ができるのでしょうか?

メンバー全員の意識が高まった時、何かが起こり始める....
そんな気がする40歳を目前にしたLAの夜なのでした。

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